戦後史開封~1945年以降の日本の歴史/真実に迫る (日本現代史)
ചാനൽ വിവരങ്ങൾ
戦後史開封~1945年以降の日本の歴史/真実に迫る (日本現代史)
「戦後史開封」は、戦後日本の政治史、外交史、エンタメ・服飾芸能史などの様々な出来事を再取材、現代の観点で再構成するドキュメンタリー番組。埋もれていた逸話、報道されていない事実にも光を当てて戦後日本を振り返ります。■産経Podcast おすすめ番組『神田蘭の5分で恋する日本史列伝』人気〝講談師〟の神田蘭が語る、...
സമീപകാല എപ്പിസോഡുകൾ
100 എപ്പിസോഡുകൾ
中国残留日本人④ 残留孤児が日本に一時帰国して肉親探し。そして‥中国公安へのお土産
画像は:父の富井英男さん(右)と再会し、抱き合う満さん=昭和56年3月7日、東京・代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターで
昭和56...

中国残留日本人③ 北京の日本大使館、中国の警備兵が日本人を門前払い
日本赤十字社などを窓口とした残留日本人の集団帰国で約2万9000人が日本に帰った。しかし、日中関係の悪化で昭和33年に中断してしまった。
共産中国...

中国残留日本人② 政治問題スレスレの中で実現した、中国要人の初訪日
中国残留日本人の帰国を決めた日中共同コミュニケ‥その調印前夜となる昭和28年3月4日夜、日本代表団が詰めていた北京のホテルに、一人の男が訪ねてきた。

中国残留日本人① 戦争が終わっても日本に戻れなかった〝残留婦人〟と〝残留孤児〟
「母親が乳飲み子の首を絞め、ぐったりしたところで土で埋めたんです。でも、殺しきれない母親もいて、子供はまた生き返るんです」
そう語るのは、開拓...

ミニスカート④ 「殿方には悲しいお知らせ。街からミニが消えます」
サムネ画像は、「トーキョー・モード・プレス'97」高田賢三ファッションショー=江東区有明の「ホール1000」
【今回の戦後史開封は】10年間にもわ...

ミニスカート③ 〝総中流化〟の象徴
サムネ画像は、ミニスカートを流行らせたモデルのツィッギー
【今回の戦後史開封は】ツイッギーが来日した昭和42年、当時、広告代理店の「電通」に...

ミニスカート② 森英恵が佐藤栄作首相の夫人にミニをはかせた
サムネ画像は、佐藤栄作首相と渡米する寛子夫人(羽田空港にて 昭和44年11月17日)
【今回の戦後史開封は】ツイッギーの来日から2年余りがたった...

ミニスカート① 羽田に降り立った英国人モデルは〝小枝(ツイッギー)〟と呼ばれた18歳
サムネ画像は、ヒルトンホテルで会見に臨んだツイッギー(昭和42年10月19日)
【今回の戦後史開封は】きのうは5cm、今日は10cm。まるで秋の日差し...

ゴジラ(東宝) Vs. ガメラ(大映)⑤ 夢はゴジラとガメラの直接対決、世界を視野に果てなく暴れ続ける‥
復活第一作「ガメラ 大怪獣空中決戦」(平成7年)は20~30歳代の男性層が熱狂的に支持した。監督の金子修介がブルーリボン賞監督賞に輝いたのをはじめ、復活ガ...

ゴジラ(東宝) Vs. ガメラ(大映)④ 東宝の"ゴジラ復活準備委員会"と、CGを駆使した大映ガメラ
「G委員会」‥昭和59年、東宝社内にこんな組織が発足した。正式名称は「ゴジラ復活準備委員会」。昭和29年の第一作「ゴジラ」製作の際に使われた「G(ジャイア...

ゴジラ(東宝) Vs. ガメラ(大映)③ ゴジラが"シェー"をする大変貌と映画産業の斜陽化で眠りにつくガメラ
「キングコング対ゴジラ」東宝が昭和37年に公開したゴジラ第3作では日米の二大キャラクターが激突した。2作目から7年。満を持してのゴジラ登場は本格的な「対...

天皇陛下が墓参した「インドネシア残留日本兵」の物語 ⑤ 戦後も通用し続けた、日本の軍票
軍票とは、軍が戦地で発行する、お金の代用品=代用紙幣のことだ。当然のことながら戦争で負ければ軍票は紙切れ同然となる。現にアジア各地で発行した日本軍の軍...

天皇陛下が墓参した「インドネシア残留日本兵」の物語 ④ 軍艦までインドネシアに渡す
「終戦直後、われわれ憲兵はイギリス軍によって刑務所に収容されてしまった。そこへインドネシア人義勇軍の兵士だった数人が訪ねてきて、“これまでわれわれは日...

天皇陛下が墓参した「インドネシア残留日本兵」の物語 ③ イギリスに逆らい独立集会を許可
昭和20年8月、インドネシアのジャワ島で終戦を迎えた陸軍航空隊の藤山たちは、間もなくジャカルタ市内の警備に当たることになった。上陸してきたイギリス軍が日...

天皇陛下が墓参した「インドネシア残留日本兵」の物語 ② 終戦後に初めて経験した、実戦
オランダは350年にわたってインドネシアを植民地支配した。この間、各部族が抵抗を繰り返したが、1904年にスマトラ北部のアチェ族が投降し、オランダは完全にイ...

天皇陛下が墓参した「インドネシア残留日本兵」の物語 ① 復員船に乗れなかった交渉役
昭和20年8月15日、日本軍は武器を捨てました。しかし、この日から本格的な戦闘を開始した日本人がいたのです。インドネシア残留日本兵です。日本軍を離れ、現地...

ゴジラ(東宝) Vs. ガメラ(大映)② "特撮の神様"円谷英二と"特撮の素人"大映、驚愕の緻密さで挑戦
怪獣映画の第一作「ゴジラ」は大当たりした。ヒットに勢いを得て東宝は即座に続編の製作に着手、翌年に「ゴジラの逆襲」のタイトルで封切った。成功に安堵したプ...

ゴジラ(東宝) Vs. ガメラ(大映)① ゴジラは「代わりに作った作品」だった。
昭和29年、東宝は映画 『ゴジラ』を公開、大ヒットさせた。 一方の大映は「空飛ぶカメをテーマに企画を出せ!」という社長命令で、映画ガメラの制作に取り組む。...

コカ・コーラ VS ペプシ④ レモン味の「ペプシツイスト」に、「ダイエット コカ・コーラ レモン」…戦いは続く
「レモン味のコーラを日本で売りたい。売れる素地はある。だが、アメリカと同じ商品ではだめだ。日本人の味覚に合ったおいしいコーラを作らなければ」
...

コカ・コーラ VS ペプシ③ 激しい自販機争奪戦。戦いはまるで「オセロ」
「一言でいうならば、コカ・コーラは『ザ・ブランド』。ブランドの中のブランドです」
かつて日本コカ・コーラのマーケティング本部取締役副社長を務め...

コカ・コーラ VS ペプシ② 「宇宙旅行」を景品に猛追するペプシ。オリンピックで存在感のコカ・コーラ
『アメリカ出身、1998年3月3日生まれ。「今このときを楽しみたい」という若者に夢と幸運を与えるため、日夜ペプシを求める人々のところへ、颯爽と向かう』
...

コカ・コーラ VS ペプシ① 日本初の比較広告で挑戦するペプシ。かわすコカ・コーラ
「青」のペプシ・コーラと、「赤」のコカ・コーラ。
2つのコーラは、戦後あいついで日本に上陸した。
最初は、駐留するアメリカの軍関係者用だった...

マンガ⑤ 『教師=聖域』に反発「ハレンチ学園」
昭和44年の春ごろ、当時まだ23歳だったマンガ家、永井豪は、全国の教育委員会やPTAから集中砲火を浴びていた。出版社には「何だあのマンガは」といった電話や...

マンガ④ 貸本マンガ家が生みだした劇画
昭和30年ごろ、東京・池袋近くの椎名町にあった「トキワ荘」というアパートに、藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎ら、若手マンガ家たちが集まって互いに腕を...

マンガ③ アトム→アトム大使→鉄人アトム
昭和25年の秋、光文社の月刊誌『少年』の編集長だった金井武志は、スタッフと貸本屋を回っていた。『少年』に新風を吹き込むため、新たなマンガ家を求めていた...

マンガ② まったく同じ日付で創刊 『サンデー』と『マガジン』
講談社の少女雑誌『なかよし』の編集長だった牧野武朗が、野間省一社長(故人)に呼び出されたのは、昭和34年1月中旬のことだった。
「いよいよわが社...

マンガ① 原作になかった「燃え尽きたジョー」
今や5000億円市場といわれる日本のマンガ・マーケット。出版物全体に占める比率は30%をはるかに越え、“大のおとな”が電車の中でマンガを読みふけるのも、日常の...

ゴジラ⑤ 円谷 二世の新たなる挑戦
昭和38年、ゴジラの生みの親の一人である特技監督、円谷英二が設立した円谷特技プロダクションにある企画が持ち込まれた。円谷の二男で、当時フジテレビ映画部に...

ゴジラ④ 「真珠湾」が円谷特撮の原点
ゴジラの誕生から39年目の夏、一つの恐竜映画が世界中を席巻した。それまでの興行収入記録を塗り替える大ヒットとなったアメリカ映画『ジュラシック・パーク』だ...

ゴジラ③ 「ぬいぐるみ方式」は最高機密
今でこそ、ゴジラはぬいぐるみに人間が入っていると、だれもが知っている。だが、日本で初めての怪獣映画として登場した当時、このことは、実は最高機密になって...

ゴジラ② 海で散った英霊の化身
水爆実験によって太古の眠りから覚めたゴジラは、東京湾の品川沖から日本に上陸する。品川駅を壊したあと一度は海へと消えるが、再び芝浦付近に現れ、海岸線に張...

ゴジラ① それは南海の機上で生まれた
かつて、どこの学校にも「ゴジラ」がいた。ごつくて強い少年のあだ名は、たいてい「ゴリラ」か「ゴジラ」だった。ゴジラは今年もスクリーンで暴れ回っている。国...

昭和45年の大阪万博⑤ 最大の危機…居残った5000人が野宿
万博の開会から半年。入場者数はうなぎ登りで、閉幕直前の時期は身動きもできない程だった。そして事件は起こる。午後10時半の閉門時間が近づいても、一部の客が...

昭和45年の大阪万博④ 渋る岡本太郎をサウナで口説く
万博のシンボル、「太陽の塔」を設計したのは岡本太郎、テーマ展示プロデューサーを務めていた。岡本は当初、就任をしぶっていたが、粘り強く口説いた人物がいた...

昭和45年の大阪万博③ わざとやった? マーク差し替え
万博のシンボルマークは、厳正なコンペを経て決定された。しかし、発表の直前、万博協会の会長が「あのマークは何が何だかピンとこない」とまくしたて、つぶして...

昭和45年の大阪万博② 河野一郎を抑えた関西の財界
大阪1箇所での開催予定に対し、神戸と滋賀に地盤を持つ河野一郎が納得しなかった。政界の実力者・河野一郎を抑えたのは、ある人物だった。
番組の...

昭和45年の大阪万博① 見合いの席で決まった開催
万博の誘致の発端は、後に作家・堺屋太一となる大阪出身の通産省通商局通商調査官、池口小太郎の見合いの席だった。
番組のフォローと高評価をお願...

ビートルズが日本にやって来た!⑤「彼らが残したもの」
昭和41年7月3日午前10時43分、ビートルズは五日間の日本滞在を終え、羽田空港を飛びたった。高速で羽田へ向かう途中、4人は黒塗りのキャデラックの天井に、マ...

ビートルズが日本にやって来た!④「外出禁止の4人」
ビートルズのメンバーが日本に滞在していた昭和41年7月初め、宿舎の東京ヒルトンホテル10階の1005号室「プレジデンシャル・スイート」を、赤坂の芸者4人が訪れ...

ビートルズが日本にやって来た!③「チケットの応募総数二十一万通、悲喜こもごもだった公演当日」
確か昭和41年6月28日のことだった。当時福岡県立明善高校の3年生だった、シーナ&ロケッツのギタリスト鮎川誠はバイクに乗り、友だち5人と小雨混じりの国道を...